これまでの気候の移り変わり(第五版)

中学や高校では歴史を習います。しかしこの『歴史』は,あくまでも人間が何をしてきたのかなのです。ところが気候にも劇的な,ちゃんとした移り変わりがあるのです。このページでは関西を中心とした気候の『歴史』について,一般向けに簡単にまとめてご紹介します。


氷河期

ヨーロッパでは氷河の進出した時代がいくつか存在していることが,早くから知られていました。気候変化の流れの中で,新生代に始まった,きわめて寒冷ないくつかの期間を氷期と呼びます(一般には氷河期とも言われています)。また氷期と氷期の間の期間を間氷期といいます。それぞれの時代の氷期の呼び名にはいろいろありますが,ここではヨーロッパ式で呼ぶことにします。主要な氷期は,一般的に下に示した4つが広く知られています。氷期の名称と,そのおおよその期間をまとめると次のようになります。

・ギュンツ氷期:Gunz glaciation(およそ600,000年前)
ギュンツ=ミンデル間氷期
・ミンデル氷期:Mindel glaciation(478,000年~424,000年前)
ミンデル=リス間氷期
・リス氷期:Riss glaciation(200,000年~130,000年前)
エーミアン間氷期(リス=ヴュルム間氷期)
・ヴュルム氷期:Wurm glaciation(70,000年~18,500年前)

このうちギュンツ氷期とヴュルム氷期は長くて,前期と後期に特に寒冷な時期があり,それぞれ初期氷期,主要氷期とよばれています。最近の氷期は18,500年前に終わったヴュルム主要氷期ですが,これを最終氷期としばしば呼ぶこともあります。現在はそれに続く,間氷期にあたる時代であると,一般的に考えられています。

これらの氷期は,ミランコビッチサイクルと呼ばれる地球の動きの変化の周期性が引き金となって,生じたものと考えられています。地球の公転の軌道は楕円ですが,これがしゃげたり真円に近くなったりの変動をくり返しています。この軌道がへしゃげるほど遠日点での太陽からの入射はかなり少なくなります。また自転の地軸もある周期で傾いたり立ったりします。このいわゆる黄道傾斜角が急になる,つまり地軸が公転面に対して倒れ込むほど,夏も冬も厳しくなって,季節変動のコントラストがはっきりします。さらに歳差運動による変化によって,大陸の多い北半球の冬が,今とは逆に遠日点に重なると,北半球の大陸には氷床が発達しやすくなります。この氷床は太陽からの光の反射率,つまりアルベドが高く太陽からの放射をよく反射しますし,自分自身は溶けにくいものなのです。太陽からの放射が多く反射されるほど地球に入る太陽のエネルギーが減少し,地球の寒冷化を招くことになります。そしてさらなる氷床の発達へとつながっていきます。ミランコビッチサイクルが招いた,このような正のフィードバックが働いたことによって,氷期が生じたものと考えられています。

陸上に氷床が発達したため,海面は今より約100m,あるいはそれ以上低下していたと見られています。氷床は,たとえばアメリカ大陸ならば現在のカナダの国土分をすっぽりと覆うくらいに広がっていました。その厚さは3kmにも及んだともいわれています。アメリカ合衆国内は南部を除いてすべて北方林で覆われ,南部も針葉樹林地帯となっていたことがわかっています。

日本はどうかといいますと,北海道の半分以上にはツンドラが広がり,エゾマツやトウヒなどからなる亜寒帯針葉樹林帯が東北から西日本の山地にまで分布していたとみられています。関東から西日本の平地の広い範囲には冷温帯落葉広葉樹林帯,つまりブナなどがどこまでも生い茂っていたとみられます。シイ,カシ,クスノキ,タブノキといった肉厚で光沢を持つ葉を年中つけた木は照葉樹と呼ばれており,現在は西日本の自然林に多く見られます。しかし最終氷期であったこのころは,種子島・屋久島あたりに細々とあったに過ぎなかったようです。現在,たとえば代表的な照葉樹であるタブノキの北限の地は,秋田県の南部の,南極探検で有名な白瀬中尉の故郷である,金浦という町(現・にかほ市)です。よく考えてみますと,この最終氷期当時は,九州の南の端が,現在の秋田県の南部あたりの気候に相当したと,単純に見ることができます。なお,当時は海面が低くなっているために,当時の日本列島は朝鮮半島,そしてサハリンを介して大陸とも地続でしたし,瀬戸内海も存在しませんでした。


ヤンガードライアス期

12000年前になると,夏の太陽からの放射量は7%増加し気候は温暖化の方に向かいました。アメリカやヨーロッパなどの氷床は溶け,植生は北へ,北へと移動していきました。二酸化炭素も増加し,特徴的な温暖な時代が13000~11000年前に現われました。この温暖期のことを,北欧ではとくにアレレード(Allered)期というそうです。

ところがこのあと,急激に温度が100年間で平均6℃程度も下がった時期が見られました。この寒冷期は11000~10720年前のわずか280年間の間に生じたとされています。この時期はヤンガードライアス(Younger-Dryas)期と呼ばれていて,日本にも存在していたことが分かっています。この時期には再び氷床が著しく発達するなど,氷期の状態に逆戻りしました。ところがこのヤンガードライアス期の末期(10720年前)には,なんと50年間の間に7℃の温暖化が生じ,この寒冷期が終わったとされています。

この原因をめぐって,ながらく論争がありました。地球の動き,火山噴火,温室効果ガス濃度の変化,海流の変化などいろいろ言われてきましたが,現在のところ,海流のパターン変化がひき起こしたという説と彗星のような天体が地球に衝突したことによるダスト・煙りによる日射の遮蔽の2つの説に絞られてくるようになりました。

まずは海流説について。海流には,黒潮や親潮として知られるような海面付近に存在する流れの他,海面から800m以上深い場所を流れる深層海流とよばれるものがあり,この2つの流れが組み合わさることよって,海水は立体的に循環しています。グリーンランド近海や南氷洋で海氷ができる際には,海水のうち水の成分の分が先に凍り,凍らなかった残りの塩分の高い海水が,温度も低いこともあって比重が大きくなり,次第に海の底深くに沈み混みます。この塩分の濃くて冷たい海水は海底を這うように移動し,グリーンランド沖の海底を離れて約1200年後に印度洋海底へ,また2000年後に大平洋海底に達します。ここで物凄い水圧の為に海底の海水温が上昇し,海面近くに浮き上がる。そしてこの海水が暖められた後に,海面近くの海流となって赤道付近の熱エネルギーを手みやげに再び南極・北極へ帰って行いきます。この循環は一般にコンベヤーベルトと呼ばれます。

氷期には北米大陸に氷床が大きく広がってましたが,温暖化するにつれてそれが溶け,その水が今の五大湖付近に溜まって巨大な湖を形作っていました。ところが今から13000年前,水かさが増した湖水に耐えかねて湖の周辺が決潰,大量の真水が北大西洋・グリーンランド近海に流れ込んでいきました。そうなると海水が薄まり,塩分濃度が低くなります。これがきっかけで冷たい水が海底に沈み込まなくなり,地球全体のコンベヤーベルトが衰弱していき,さらにその2000年後には完全にこれが停止したのではないか,とされました。コンベヤーベルトが停止すると,北極・南極に向かって,赤道近くからの熱エネルギーが運ばれにくくなり,極に近い高緯度地方は当然寒くなります。寒くなると氷床が発達し,地球全体でみたアルベドが高くなって更に寒冷化し,といった氷期と同様の悪循環に落ち込んだとみられてきました。

一方の彗星の衝突の説について。彗星が衝突すると地表のものが巻き上げられたり,火災により発生したススなどが発生し,それが太陽からの日射を遮ることで寒冷化をひき起こします。良く知られた例としては,今から6500万年前にメキシコのユカタン半島付近に発生した小天体の衝突と,それによって発生した急激な寒冷化によって恐竜を中心にした大量絶滅が挙げられます。ところが12900年前にも小天体の衝突があったとする論文が2007年に出され,これが議論をよびました。小天体が衝突することで,このときのダストにイリジウムという物質が含まれることになるのですが,北米を中心にこの部室が12900年前の地層から相次いで見つかった上,その層にススなども大量に存在することから,この小天体が,地表に衝突または空中爆発を起こしたことは,ほぼ間違いないというようになってきました。ということで,最近はこちらの小天体衝突がヤンガードライアス期をひき起こしたというように,定説がひっくり返ることになりました。

ヤンガードライアス期では,気候の寒冷化が6℃/100年,温暖化が7℃/50年と,急激な変化があったといわれています。このころ地球上に生えている植物もたまったものではありません。ヤンガードゥリアス期に入ると,北西ヨーロッパではそれまで生えていたトウヒやシラカンバが,あっという間に,より寒冷な地方に生育する低木や草本に置き換わったと言われています。アメリカでも寒冷化と時を同じくして,広葉樹の種類が激減し,代わってトウヒやモミ,シラカンバなどがまたたく間に増加したことが花粉分析から明らかになりました。これに対し,ヤンガードゥリアス期が終わった後の10000~9800年前には,ツンドラに再びトウヒなどの植物が入ってきたように見えるますが,これは花粉が風によって運ばれたことによる誤認の可能性もあります。

日本でも,ヤンガードライアス期が終わってすでに1000年経った9000年前には,大阪平野や名古屋近辺が,暖かさの指数から見るとすでに照葉樹林が生えても良い条件となっているのに,実際の植生は紀伊半島のあたりを北上中であったことが花粉分析から明らかになっています。ここからも,気候の急激な温暖化に植生の反応(移動)が全くついていっていないことがわかります。花粉分析では,たとえば紀伊半島南部から大阪まで,この後,照葉樹林群落が拡大するのに3000年かかったという結果が得られています。


ヒプシサーマル期(気候最適期)

6000年前までに,全地球的に夏の気温が現在より2~4℃高い期間が始まった。この頃,夏の太陽からの放射量は現在より4%多く,冬は逆に4%少なくなりました。黒点数から見た太陽活動も,この時期,非常に活発でした。7000~5000年前までのこの温暖な時期をヒプシサーマル(hypsithermal)期,あるいは気候最適(postglacial climatic optimum)期と呼びます。このころの氷床の著しい縮小にともなって,氷期以来低くなっていた海面は一気に上昇し,現在より数m高くなりました(いわゆる縄文海進です)。魚津の埋没林(富山湾)のように,大陸棚が植物もろとも水没した場所も見られます。アフリカから中近東は現在より多雨で,現在のサハラ砂漠は森林に覆われていたといわれています。亜熱帯高気圧は北に偏り,中緯度は現在より乾燥していたようです。

日本ではこの頃,年平均気温が現在より2℃程度高かったと推定されています。しかし植生の拡大・北上はこの温暖化になかなか追い付けませんでした。実際に照葉樹が大阪まで広がったのが6500年前。南紀の新宮から大阪までの拡大に2,000年もかかりました。京都への到達はさらに100年後でした。この温暖期に氷上回廊(中央分水界の最低標高点99 mが現在の兵庫県丹波市にあります)を通ることで,照葉樹は6000年前に日本海側へも分布をいち早く拡大させて,現在の照葉樹の北限(秋田県南)まで長い時を経て拡がったと思われます。

一方,ブナなどの冷温帯林の寒冷側の生育限界における現在の気候条件は,北海道における北限(いわゆる黒松内線)付近と,本州における高度限界付近でかなり異なります(吉良,1947)。前者の方は後者に比べて温暖な傾向があります。このことは,現在においてもなおブナ林が北海道で分布を北の方に拡大している最中であることを示しています。


ネオグラシエーション

この後,太陽活動の盛衰と同期するように,気候の温暖期や寒冷期が訪れるようになりました。ヒプシサーマル期の後には,太陽活動が一気に衰弱しました(シュメール第一,第二極小期: Sumerian I and II minima)。5500~5000年前のことでした。これに伴いネオグラシエーション(Neoglaciation)と呼ばれる寒冷期が訪れた。大阪の上町台地以外の部分や,名古屋の城より海側から岐阜県にいたる広い地域はこの時まで海でしたが,気候は冷涼・湿潤化し,降水量も増加しました。降水量の増加のため自然の埋め立てが進みました,沖積平野はこの時期にできたといわれています。日本海側で新しくできた沖積低地にはスギ群落が非常に多く発達しました。湿った条件(年降水量で約1,800 mm以上)で自生するスギが当時,山地のみならず平野にも生えたことが,この時代の降水量の多さの証拠と言えるでしょう。


水稲作拡大に影響したホーマー・ギリシャ極小期

紀元前2000年以降には冷涼化することが多くなりました。ホーマー極小期(Homeric minimum, 紀元前750年前後),ギリシャ極小期(Greece minimum, 紀元前330年前後)の影響は大きいものでした。これらの極小期における日本の水稲作地域の拡大は沈滞していました。ただし,2つの極小期の中間の温暖な時代(紀元前500~400年)には,水稲作地域が加賀(石川県)から弘前(青森県)まで日本海沿いに一気に拡大したと推測されています(小林,2009)


古代後期小氷期

日本では弥生時代にあたる1~2世紀頃には寒冷期を迎えました。西暦300年頃に温暖な状態に一旦落ち着きましたが,400年頃には冷涼化のトレンドに戻り,5世紀中はそれが続きました。600~750年には再び著しく気候が寒冷化しました。この時代を古代後期小氷期(Late Antique Little Ice Age)と呼びます。この後,750~900年の間には旱魃が増えるなど顕著な温暖化があり,暖かい状態は10世紀まで続きました。


中世温暖期

西暦800~1300年は,現在並み,あるいはそれをやや上回る温暖な時期でした。この現象は全地球的に見られたとされています。この時期,ヨーロッパではノルマン人が大西洋を渡ってグリーンランドに入植しました。また,この頃の大西洋には流氷がほとんど見られなかったと言われています。当時のアイスランドではエンバクなどの麦類が栽培可能でした。この温暖期を中世温暖期(Middle Ages warm epoch)と呼びます。このときの太陽活動は,西暦1100~1300年には現在並みに活発だったとされています。100年オーダーで気候を見ると,太陽活動が最も影響しているように見える。

また図1は昔の日記や年代記によってわかったサクラの満開時期から計算した,京都の3月の平均気温の推移です。この時代はデータの数が少ないので精度は悪いが,それでも西暦1200年を中心に,気温の高かった時代があったことが定性的にわかりました。

おりしもこの時代は日本の平安時代。のんびりとした時代が続いたのも,この中世温暖期のお陰だったのかもしれません。そういえば,当時の貴族の館は『寝殿造り』と呼ばれる,いかにも風通しのよさそうな,というよりは寒そうな様式をしています。こんな中世温暖期だったから,貴族も寒さに耐えられたのかもしれません。


小氷期

太陽の黒点が少ないことは太陽活動が不活発なことを意味しています。西暦1300年以降,この太陽の黒点が急に少なくなり太陽活動が不活発な時期が繰り返してやってくるようになりました。その時期は1320年頃,1460~1550年,1660~1715年,そして1800年前後である。1320年頃の極少期をウォルフ極小期,1460~1550年のそれをスペーラー極小期,そしてとくに西暦1660~1715年のおよそ70年間の太陽黒点がほとんど無くなった顕著な黒点極少期間をマウンダー極小期(Maunder minimum),また一番最近の1800年前後の短い極少期をドルトン極少期と,それぞれ呼びます。

この4つの時期は,サクラの満開日から推定した京都の気温(図1)の低かった時期とかなりシンクロしています。サクラの満開日による3月の京都の気温は冬季の気温にかなり似た傾向を示すと思われますが,やはり,この太陽活動の不活発な時期は,世界的な気候悪化,寒冷化が見られた時代と,全般に一致したようです。西暦1300年以後,1850年までのこの期間を,小氷期(Little Ice Age)と呼びます。この時期には各地で氷河の前進が起きました。日本でも西暦1300年を過ぎると気候悪化が起こり,降水量が増えて,濃尾平野などでは河道変化が繰り返されるようになりました。

特にマウンダー極少期とその次のドルトン極少期にあたる1600~1850年の寒さの程度はものすごく,小氷期をこの時期に限定する場合もあります。この時期,日本では大雪,冷夏が相次ぎました。淀川が大阪近辺で完全に氷結したこともあります。大阪の河内地方ではそれまで盛んであった綿作が,気候寒冷化・降水量増加にためにイネ・ナタネに転作を余儀なくされたとも言われています。大塩平八郎の乱を鎮圧した大坂城代としても有名な土井利位は,現在の茨城県古河市付近で雪の結晶を観察・研究,1820年に「雪華図説」として書籍を発表しました。こうした観察は-15℃程度の寒さが必要で,現代では北海道でしか無理であると思われます。ともあれ,この時期,とくに19世紀初頭は寒かったようです。日本では小氷期のうちでも最も寒冷な期間,たとえば1830年代と1980年代を比べると冬や春の平均気温は2℃程度,京都に限ると3.4℃も現在よりも低かったと推測されています。


最近の気候温暖化は何のせい?

現在,気候条件は19世紀の前半(前節で触れたドルトン極小期あたり)以降,確実に暖かくなってきました。国連に関係した機関であるIPCCによると,最近100年間に,地球表面全体で平均して0.6℃ほど気温が上がったと報告されています。こうした温暖化が,果たしてなぜ生じたか,今後の気候推移はどうなるか,これについては,最近,議論が沸騰しているようです。詰まる所,『地球温暖化に温室効果気体の濃度上昇がどれほど関与するものなのか?』『太陽活動の盛衰が気候変動に及ぼす影響が,これまで考えられていた以上に大きいのではないか?』というあたりで議論が盛んに闘わされている状況といえるかもしれません。とくに最近になって,太陽活動の盛衰が及ぼす地球大気へのさまざまな影響が次々と明らかになったり,説として出されたりしています。

古くから,太陽活動が活発になると日射量が増加し,気候温暖化に結びつく,と,言われて来ました。しかし,この日射量の変動の幅は,せいぜい2ワット毎平米程度,太陽定数の0.何%に過ぎず,これだけでは大きな気候変動につながらないという矛盾がありました。最近になって,太陽の盛衰によって紫外線量が最大8%も変動することがわかり,これが低緯度・高緯度のそれぞれの上部成層圏から中間圏あたり(高さが約50km程度)の気温差を大きく変動させることがわかりました。例えば太陽活動が活発になって,上空で吸収される紫外線が増え,緯度による気温差が大きくなると,温度風,この場合は上空のジェット気流の強さが増します。そうした風の吹き方に現れた違いが巡り巡って,地上付近の季節風の吹く頻度,熱帯付近の雲の発達のしやすさなど,さまざまな面に影響が出て来ることがわかってきています。いずれも,太陽活動が活発になると気候が温暖になる方向に機能していきます。

太陽活動と地球の気候との関連について,以下のようなものもあります。まだ説の段階で正式に認められたわけでもありませんが,宇宙線の降って来る量が変動し,雲の量の変動に繋がる,というものです。太陽からは太陽風という磁場を伴ったプラズマの粒子(陽子とか電子とか)が出ています。これは通常,地上付近には降って来ません。地磁気のせいで北極,南極に集められ,オーロラを発生させたりするのみです。ところが宇宙ではもっとエネルギーが強く,銀河の中心付近からはるばるやって来るといわれる銀河宇宙線というものがあります。これはエネルギーが強く,普通,地上近く(対流圏)まで降って来ます。この宇宙線は大気分子にあたると分子が荷電し,それによって寄り集まった空気分子の塊(クラスターと言います)を核として霧が発生します(霧箱って,高校の物理で習いましたよね)。太陽活動が不活発な時には,地球の外の磁気雲を形成する太陽風の吹き方が弱かったり,太陽からの磁場そのものが弱くなるくことが少ない結果,電荷を帯びた沢山の銀河宇宙線が,たやすく地球大気,それも下層の対流圏までやってきやすくなり,雲を多く発生させる,ということです。また逆に太陽活動が活発になると,磁気を帯びた太陽風が沢山でたり,太陽から発生する強い磁場のために,電荷を帯びている銀河宇宙線を散乱させるようになり,銀河宇宙線が地球大気に降ってこなくなり,雲のできる量も少なくなり,太陽放射が地面に届きやすくなったり降水量が減少したりして地上付近の気温も上昇するとされています。今,世界のさまざまな研究者が太陽や磁場・宇宙線の観測,加速器などを使った実証実験,古環境の調査や解析結果などを通して,このスベンスマルクの説の検証が進められています。

あくまで個人的意見として……
温室効果ガス濃度上昇=温暖化,と,一般にはイメージされがちですが,正確なところこの濃度上昇が,現に起きている温暖化にどの程度寄与しているかを定量的に高い精度で突き止めたり証明した人は誰もいません。温室効果ガスがとてつもない地球温暖化をもたらすというのは,メカニズムの説明が至極簡単な一つの説に過ぎないのですが,温室効果の説明が至極簡単であっただけに,環境保護を錦の御旗に掲げての『啓蒙』に使用しやすく,また一般への浸透も早かったので,現在のような状況に至ったと個人的には考えます。最近起きてきた気候の温暖化を,ただ盲目的に温室効果ガス濃度上昇のせいとするのでなく,具体的に,以前にどの程度の気候変動があったのか,それが何によってひき起こされたのか,今後,どの程度の気候変動のリスクがあるのか,それらを正確に調べることが我々,気象学・気候学,さらには地球物理などを専門としている者の責務である,と純粋に考えたりもしています。自然科学を志したる者なら,こうして真実を知りたがるのが本来の正常な姿だと思うのです。


都市化がもたらした昇温

前に述べた小氷期とくらべると,現在は,都市でないところでは2℃程度の気温上昇で済んでいるのに,都心ではそれ以上上昇していることが多くみられます。これは都市の構造や,人間活動,大気汚染などのために都市の大気が暖められて(特に夜間に)できる『都市ヒートアイランド』が,気候値にもたらした悪戯と言えるでしょう。こうして気温などの年々の推移に都市の昇温が影響した量を専門的には都市バイアスと呼びます。夜間のヒートアイランドは主に,次に挙げた項目が原因でできると言われています。

・都市の建物による多重反射のお陰で,日中,太陽光がたっぷり吸収される。
・都市の建物や道路が熱を溜めやすい。
・交通,産業活動により消費されたエネルギーが熱として放出される。
・大気汚染,特に塵などが都市からの熱の放射を吸収・遮断。ミニ温室効果が起こる。
・屋根より下のレベルでみると,建物間の街路に熱が溜まり易い。

これらの積み重ねが年々の気温の移り変わりを大きく左右します。またその影響の度合も年々で変化することが,話を複雑にしています。そこに都市がなかったと仮定した場合の気温(自然値)と,実際の都市のなかの温度との差を『都市効果』と,以後,呼ぶことにします。


京都での3月の気温の都市効果を見ると,図2にあるように,今世紀に入ってどんどん増え,1970年あたりにピークに達しました。これは大体,どんな都市でも見られる現象のようです。都市効果自体も季節や時間によって異なります。夏場より冬場,また昼間より夜間のほうが都市効果が大きく出る傾向にあります。


1970年以降は,都心での昇温は一段落といったように見られます。ところが開発が盛んな周辺の衛星都市では都心を追いかけるように昇温が今なお進んでいます。すこし調べて見たのですが,都心の気温の自然値をベースに,周辺地点の気温と比べて見ると,1910~30年代には都市化が進みはじめた福島や天王寺で昇温が始まっており,1970年頃には岸和田市で相対的な昇温がみられ始めました。また現在でも枚方市の片町線津田駅近くにあるアメダスの冬の気温の値は,都心を追いかけるように,相対的に上昇し続けています(図3)。


参考文献
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